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上記で引用されているページに、チェスの慣例についてこう記載されています。
「棋譜(スコア)は単なる事実の記述なので、パブリックドメインとして自由に扱ってよい」という古くからの慣例があり、FIDEと海外の下部組織はこれを踏襲しているが、日本チェス協会(JCA)はこの伝統を無視し、JCA側に権利があるとしている。
つまり世界的慣例では「著作権がない」とされるにも関わらず日本独自で「著作権がある」と主張しているってことで、ここは重要なポイントではないかと思います。
主張では著作権の元となる著作者を以下どちらとしてるのでしょうね?(A) 棋譜の元である対局した2人の棋士(B) それを書いた記録係
Aだと、定石を発明した過去の棋士が一次著作権者になる理屈になって、随分ややこしいことになりそうですしBだと、本当に事実の記録にすぎないのでとても高度な創作とは言えないと思います。
将棋の場合、音楽と違ってある程度想定の範囲内というか、似たような進行になりますからねえ。
稀な例ではありますが、実際終局まで前例のある棋譜が発生したことすらあります (2009年王位戦挑決リーグ 渡辺-豊島と2009年王座戦一次予選 堀口(弘)-村山(慈))。
あるいは、詰みまで定跡として知られていた変化を新手と思って指して、そのまま投了まで定跡通りに指してしまったなんて例もあります(2011年A級順位戦 渡辺-郷田)。
後者の例などは、指される前の時点でネットに投了図が公開されているような状態だったのですが、果たしてこの棋譜に著作権はあるんでしょうか。あるとしたら、誰に?
棋譜に著作権があるとしたらという仮定で書くと。
小説などの世界でも、元を知らずに、一部がたまたま同じ小説を書いてしまった場合には、どちらの作者にも著作権が認められますよ。最初から最後まで同じで認められた例はないですが。
というわけで、まずは、元の棋譜を知っていたかどうかの検証があり、それから著作権が認められるでしょう。
>小説などの世界でも、元を知らずに、一部がたまたま同じ小説を書いてしまった場合には、どちらの作者にも著作権が認められますよ。最初から最後まで同じで認められた例はないですが。
ちなみに、上記の例ではどちらの棋譜も勝者側は前例/定跡を知っていたそうです。前例通り指し進めれば有利が明らかな局面であえて前例を離れる棋士はいませんから、これは当然の対応です。
将棋が小説や音楽と決定的に違うのは、将棋は創作のために指すものではなく勝つために指すものだということです。ある局面から勝つための指し手がひとつしかなければ、プロであれアマチ
もともとが「著作権があると仮定すると」の話なので、踏襲することについてはその論理で話しましたが、そこから脱線して手の創造性について乗っかる形で話を変えます。
「創作のために指す」「勝つために指す」という言葉は音楽や小説を比較するときにうまい表現ではないと思います。「創作のために作曲」「創作のために執筆」では言葉としておかしいからです。
「勝つために指す」のと同列に、「売れるために作曲」があったっていいでしょう。一方で「個性を表現するために指す」という言葉もおかしくはありません。現代美術館に芸術家が棋譜をドンと展示しすれば、その棋譜のデータと共に著作権が認められるだろうということは想像に難くないです。
---
別のところで誰かもコメントしていますが、著作権は創造性という主観的判断(この棋譜の合理性こそが芸術である、とか)よりも、複製を独占して商売するという観点で利益や損害を論じた方がいいように思います。著作権ってそういう観点で論じられることもしばしばありますし。
棋士二人にギャラを払って対戦してもらい、そのときの棋譜を販売して収益を上げるという商売はまっとうなように思うし、その棋譜を第三者が配布することは商売の邪魔であるというのはそれなりに筋が通っているように思います。創造性が認められるかどうかより、そういう商売が成立しているのであればそれが著作権で保護されるのもやむなしかな、とも思います。
その上で、ニコ動でタイトル戦の棋譜を見ながらあーだこーだ言うのは楽しいでしょうから、10円とか100円の有料動画にして、とっとと公開するのがいいと思いますけどね。
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ハッカーとクラッカーの違い。大してないと思います -- あるアレゲ
同じくwikipediaより (スコア:5, 興味深い)
上記で引用されているページに、チェスの慣例についてこう記載されています。
つまり世界的慣例では「著作権がない」とされるにも関わらず日本独自で「著作権がある」と主張しているってことで、
ここは重要なポイントではないかと思います。
主張では著作権の元となる著作者を以下どちらとしてるのでしょうね?
(A) 棋譜の元である対局した2人の棋士
(B) それを書いた記録係
Aだと、定石を発明した過去の棋士が一次著作権者になる理屈になって、随分ややこしいことになりそうですし
Bだと、本当に事実の記録にすぎないのでとても高度な創作とは言えないと思います。
音楽の即興でのかけあい (スコア:0)
他人が培った思考能力から生み出されたものに対する尊敬の念が、このサイトの人には少ないのだろうか。
Re:音楽の即興でのかけあい (スコア:1)
将棋の場合、音楽と違ってある程度想定の範囲内というか、似たような進行になりますからねえ。
稀な例ではありますが、実際終局まで前例のある棋譜が発生したことすらあります (2009年王位戦挑決リーグ 渡辺-豊島と2009年王座戦一次予選 堀口(弘)-村山(慈))。
あるいは、詰みまで定跡として知られていた変化を新手と思って指して、そのまま投了まで定跡通りに指してしまったなんて例もあります(2011年A級順位戦 渡辺-郷田)
。
後者の例などは、指される前の時点でネットに投了図が公開されているような状態だったのですが、果たしてこの棋譜に著作権はあるんでしょうか。あるとしたら、誰に?
Re:音楽の即興でのかけあい (スコア:1)
棋譜に著作権があるとしたらという仮定で書くと。
小説などの世界でも、元を知らずに、一部がたまたま同じ小説を書いてしまった場合には、どちらの作者にも著作権が認められますよ。最初から最後まで同じで認められた例はないですが。
というわけで、まずは、元の棋譜を知っていたかどうかの検証があり、それから著作権が認められるでしょう。
LIVE-GON(リベゴン)
Re: (スコア:0)
>小説などの世界でも、元を知らずに、一部がたまたま同じ小説を書いてしまった場合には、どちらの作者にも著作権が認められますよ。最初から最後まで同じで認められた例はないですが。
ちなみに、上記の例ではどちらの棋譜も勝者側は前例/定跡を知っていたそうです。
前例通り指し進めれば有利が明らかな局面であえて前例を離れる棋士はいませんから、これは当然の対応です。
将棋が小説や音楽と決定的に違うのは、将棋は創作のために指すものではなく勝つために指すものだということです。
ある局面から勝つための指し手がひとつしかなければ、プロであれアマチ
Re:音楽の即興でのかけあい (スコア:1)
もともとが「著作権があると仮定すると」の話なので、踏襲することについてはその論理で話しましたが、そこから脱線して手の創造性について乗っかる形で話を変えます。
「創作のために指す」「勝つために指す」という言葉は音楽や小説を比較するときにうまい表現ではないと思います。「創作のために作曲」「創作のために執筆」では言葉としておかしいからです。
「勝つために指す」のと同列に、「売れるために作曲」があったっていいでしょう。一方で「個性を表現するために指す」という言葉もおかしくはありません。現代美術館に芸術家が棋譜をドンと展示しすれば、その棋譜のデータと共に著作権が認められるだろうということは想像に難くないです。
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別のところで誰かもコメントしていますが、著作権は創造性という主観的判断(この棋譜の合理性こそが芸術である、とか)よりも、複製を独占して商売するという観点で利益や損害を論じた方がいいように思います。著作権ってそういう観点で論じられることもしばしばありますし。
棋士二人にギャラを払って対戦してもらい、そのときの棋譜を販売して収益を上げるという商売はまっとうなように思うし、その棋譜を第三者が配布することは商売の邪魔であるというのはそれなりに筋が通っているように思います。創造性が認められるかどうかより、そういう商売が成立しているのであればそれが著作権で保護されるのもやむなしかな、とも思います。
その上で、ニコ動でタイトル戦の棋譜を見ながらあーだこーだ言うのは楽しいでしょうから、10円とか100円の有料動画にして、とっとと公開するのがいいと思いますけどね。
LIVE-GON(リベゴン)