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個人情報保護のための「忘れられる権利」、欧州と米国の衝突は避けられない」記事へのコメント

  • 匿名制が当たり前だった時代、ペルソナをサイトごとに被り変えることで現実世界では吐き出せない想いや考えを書き込んだりができていたのに、
    ここ数年の実名化促進や、コメントがTwitterやFBのIDでおこなうようになってきた結果、
    ネット世界のペルソナまで統合して減らしていかないといけなくなっていると思う。
    つまりどんなサイトに行っても同じ自分を見せて、演じつづけないといけない可能性が増している。

    そしたら、例えばFBで見せているネット上の自分が、現実の自分と解離しないために、
    ひたすら現実世界でネット上の自分
    • Re: (スコア:5, すばらしい洞察)

      ネット上で理想の自分を演じている自分も、 現実にいるキーボードを打っている自分であるわけで、 ネット上の自分が現実世界の自分に何の影響も及ぼさないと 考えるほうが、私には違和感があります。 少しでもよく見てもらいたい、その感情自体はよくわかりますが、 そう思っているのは紛れも無く現実の自分ではないですか。

      ペルソナはpersonalityの語源 [geocities.jp]だそうです。 演じ続ける、とおっしゃいますが、 例えば家庭では威厳ある父親を演じ、会社では従順なる部下を演じ、 同窓会ではひょうきんなおどけ役を演じる、それは 極めて普通の事ではないでしょうか。

      • >ネット上の自分が現実世界の自分に何の影響も及ぼさないと考えるほうが、私には違和感があります

        私は、ネット人格がなんらリアル人格に影響を及ぼしはしない、と書いたつもりはありません。
        このまま行けば、リアル人格がネット人格の奴隷になりやしないかと書いたんです。
        つまり、自らがこさえた偽造のネット人格によって、現実生活での生き方が縛られやしないかという意味でです。

        以前、「ブラウザで開いた画面の数だけ人はペルソナをかぶる」というような内容を、何かの本で見たことがあります。
        それは匿名制が前提だからこそ成立するものでした。
        しかし実名制が進むことで、どんな
        • 私なりに分けながら整理して論じる必要があるようです。

          まず、ネット実名制移行の点。 おっしゃるように、これまで影の世界だったネットに現実の太陽の部分が 流れ込んでいるというのはそのとおりでしょうし、その流れは今後も続くでしょう。 しかし、それでネットの影の部分が無くなるかというとそれは違う気がします。 それはなぜかというと、おっしゃるとおりネットで発言している人間自体が 太陽と影の2つの部分を持ち合わせた矛盾した存在だからです。 だから、ネット実名制が広まっても、匿名で活動できる部分は残り続けると私は思います。 よって、「ネット人格」というべきものが全く失われてしまうという心配は、私には無いように思われます。

          次に、ネットで無理な仮面をかぶり続けることによる「ネット人格」の「リアル人格」への侵食について。 現実の自分とは矛盾する形でしかネット上に人格を形成できなかったのだと したら、まずそれ自体が問題でしょう。 それは、現実の自分と理想の自分にギャップがあるということを示しているのでしょうが、 問題は、ギャップがあること自身ではなくて、 ギャップを埋める手段が「仮想人格の形成」であるということではないか。 ネットではそれが簡単にできると思われているのでしょうし、 顔を見せたり、実名を名乗る必要のない言論空間では実際に容易に可能でしょう。 しかし、そのような非常に任意性の強い選択こそが、 その人の個性を表すと私は考えますし、 その選択にその人自身は縛られると思いますね。 「そんなアカウントは抹消すればいいのだ」と思うかも知れませんが、 アカウント自体は抹消できても、アカウントを抹消するという選択をした自分を 消すことは出来ません。 その記憶は、そのアカウントで表現したという記憶とともに自分の中に残り続けるでしょう。

          先程も言いましたが、ペルソナを選び、被った時点で、もうその仮面は顔の一部なのです。 ですから、私には「元の自分」などを論じるのはナンセンスに見える。 人間は社会とつながりをもち、教育を受け、本を読み、他人と話し、そして誰かを愛し愛される。 そういった人間として当たり前の営みをしていれば、 「私」という存在がそういったつながりあるいは流れのなかにあると自覚できれば、 「元の自分」などというものを論じるのがナンセンスと分かる、と思います。 多数の仮面を統合する自分が存在するのは確かですが、それはやはり仮面とともにあると私は考えます。

          そして、ここまですべて括弧書きで論じてきましたが、「ネット人格」と「リアル人格」を 分けて論じること自体、私は違和感があります。 私はネットでの表現も社会とのつながりの一つだと思います。 それは、ネット上での発言を根拠にして恐喝や威力業務妨害の罪に問われることでも 明らかであると思われます。 それがネットであれネット以外であれ、 自由な発言にはそれなりの責任が伴うのです。例え匿名であってもです。 その意味ではネットも(あるいはHPでも) その人間が多数持っているペルソナの一つのチャンネルでしょう。 だから私には、「ネット人格」として区別する理由があまりよく理解できないのです。 それこそ我々が個性と呼ぶものであり、人格と呼ぶものではないのか。 「ネット人格」が「リアル人格」を侵食しているとしたら、 それはその「ネット人格」を作った時点ですでに侵食されているのです。 なぜならその人格を作ったのは自分自身であり、もしリアルと矛盾があるならば、 その矛盾を知っているのもまた自分だからです。 他人がその矛盾を知っているかいないかなど、些細な問題です。

          重大な問題は、理想と現実にギャップがある自分自身とどう向き合ったかということです。 もちろん、その問題と向き合わず、回避するからこそ ネットでの振る舞いが「リアル人格」と分裂的になるのでしょう。 そうであったら、やはり問題の根源は、ネットが実名制かどうかなどということではなく、 個々人のこころの中にあるとしか思えない。 そのような分裂的な人間は、 ネットが実名制だろうが匿名制だろうがリアルな関係だろうが分裂的に振る舞うのではないか。 反対に自分の矛盾と向き合い、自分の人生を自分なりに納得できている人間は、 そもそもネットが匿名だろうがなんだろうが分裂的に振る舞うことはないのではないか。 そういう考えです。

          最後に他人をまねる、演じるということについて。

          それではまるで物まねのロボットにも思えますし、他人の思考や言動を真似ても他人の人生は歩めません。

          確かに真似をしてもいいとも言いましたが、 誰かロールモデルとなるような偉い人間の真似をするということは、 究極的にはその人の真似をするということではなくなるはずです。 そのような他人のあこがれとなるような人間は必ず独自のものを持っています。 つまりその人は、誰かの真似をしていたから偉いのではなく、 自分独自の境地を開いているから偉いはずなのです。 だから、真似をしようとしたら、自分でも独自のものを持たなければならない。 それはその偉い人なり師匠なりを否定することですらあります。 臨済宗の開祖である臨済の言葉に次のようなものがあります(殺仏殺祖とも言われます)。

          仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。 父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん。

          解釈はいろいろあるかも知れませんが、私は模範となるべき師を 乗り越えることこそが重要であると解釈しています。

          演じるのが嘘をつくわけではないとしても、それは自然ではなく、真でもないと私は思います。

          私は社会と関わりを持っている以上、 人間が真に自然であるということはありえないと思います。 そして演じている役自体は真ではないかもしれないが、 その役を演じている人間自体は真であると思います。

          親コメント

未知のハックに一心不乱に取り組んだ結果、私は自然の法則を変えてしまった -- あるハッカー

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