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要するに「知材権を強めすぎると『もっと究めたほうがよくね?』って感じの知識、技術が巷にあふれるから、困る」って話だと思うんだが、「もっと究めたほうがよくね?」というのはどうやって分かるのか、分からん。
前提条件変更の解釈は、 昔は一部の天才が画期的な理論なり技術でその業界に革新をもたらすということがよくあったけど、 21世紀に入って科学、技術が成熟してそのようなことが少なくなってきているということですかね?
(1)'「知的革新の生産量は既存の知識と労働力をパラメータとした連続関数で表わせる」 というのは言い換えれば「ある程度労働力を投入すれば、 ある程度は知的革新が起こる(廃案になったモデルなど含む)」 つまり、既存の知識量がある状態では、ほんのちょっとの労働力で知的革新が無限大に近い成果が得られるというのは嘘である、ということですよね。 まあ、中間生産物(全体のラフなスケッチや、間違いとわかったモデル、バグだらけのコンピュータプログラムなど)を成果とみなせば、確かにその通りなのでしょう。
ここまでは理解できたけど、「社会的に最適な水準よりも過少の研究開発活動しか行われない」という「社会的に最適」はどう定義できるのか謎だった。 完成度が低い状態で、市場に投入された知識でも、たくさんの人が知ることによって (本人がやるよりも)完成度がより上がるということはないだろうか。 実はそこが「社会的に最適」なのではないかという疑問にはどう答えるのだろうか。
なんか「伽藍とバザール」みたいな話になってきたな。
タレこみでは「連続関数」となっていますが、この論文で重要なのはそれが「収穫逓減の生産関数」であることと、そのモデルが表面的には(1)に見える、と言うことです。収穫逓減とは資本を投入すればするほど効率が悪化するということで、技術開発が進めば進むほど成果に対してコストがかさむという、ある意味当たり前な現象のことですが、同時にその現象が、ある程度の資本を投入すると大きな成果が得られるように見える、という現象も説明する、と言うわけです。で、以下は明示されていないので憶測ですが。「適切な水準」とは、収穫逓減であるために存在する、投入する資本と成果が釣り合う水準の事だと思います。しかし、「知的財産への独占権」があると、権利者以外は資本を投入しても成果は利用できないし、権利者は資本を投入しても効率が悪化するだけだから投入しなくなる、と言うことかな。
フォローありがとうございます。小林氏の解説を更に要約する際に、変な編集をしてしまっていました。
経済学における社会的に最適な状態とは、関与するプレイヤーの利得の合計が最大となる状態を指します。企業・消費者からなる経済では、企業利潤と消費者余剰(消費者が支払っても良いと考える金額よりも安く財を購入できた額の合計)の合計を最大にするのが社会的に最適な状態となります。
マクロモデルはあまり触っていないので少し自信がないのですが、元の論文では競争均衡経路と社会的に最適な均衡経路は等しい事を前提として、社会的に望ましい均衡経路よりも独占の均衡経路では知識の生産活動が過小になる事を示しています。本来ならば、競争均衡と独占の比較を行うには、企業が複数いるモデルにて、独占と競争均衡を比較すべきなのですが、元の論文は経済全体の生産活動を行うマクロ生産関数を考え、個別企業の戦略を考慮していなません。マクロモデルでは、競争均衡では社会的に最適な状態が得られる事を前提として議論を行うのは割と良くあるので、このような比較を行う事それ自体は問題ではありません。しかし、本当に競争均衡と独占を比較するならば、研究開発を行う企業が複数いるときの戦略を考えなければいけません。
研究開発を企業が競争的に行うマクロモデルも存在していますので、今後この生産関数を用いた派生的な研究が行われるかもしれません。
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私は悩みをリストアップし始めたが、そのあまりの長さにいやけがさし、何も考えないことにした。-- Robert C. Pike
「社会的に最適」? (スコア:2)
要するに「知材権を強めすぎると『もっと究めたほうがよくね?』って感じの知識、技術が巷にあふれるから、困る」って話だと思うんだが、「もっと究めたほうがよくね?」というのはどうやって分かるのか、分からん。
前提条件変更の解釈は、 昔は一部の天才が画期的な理論なり技術でその業界に革新をもたらすということがよくあったけど、 21世紀に入って科学、技術が成熟してそのようなことが少なくなってきているということですかね?
(1)'「知的革新の生産量は既存の知識と労働力をパラメータとした連続関数で表わせる」 というのは言い換えれば「ある程度労働力を投入すれば、 ある程度は知的革新が起こる(廃案になったモデルなど含む)」 つまり、既存の知識量がある状態では、ほんのちょっとの労働力で知的革新が無限大に近い成果が得られるというのは嘘である、ということですよね。 まあ、中間生産物(全体のラフなスケッチや、間違いとわかったモデル、バグだらけのコンピュータプログラムなど)を成果とみなせば、確かにその通りなのでしょう。
ここまでは理解できたけど、「社会的に最適な水準よりも過少の研究開発活動しか行われない」という「社会的に最適」はどう定義できるのか謎だった。 完成度が低い状態で、市場に投入された知識でも、たくさんの人が知ることによって (本人がやるよりも)完成度がより上がるということはないだろうか。 実はそこが「社会的に最適」なのではないかという疑問にはどう答えるのだろうか。
なんか「伽藍とバザール」みたいな話になってきたな。
Re:「社会的に最適」? (スコア:3, 参考になる)
タレこみでは「連続関数」となっていますが、この論文で重要なのはそれが「収穫逓減の生産関数」であることと、そのモデルが表面的には(1)に見える、と言うことです。
収穫逓減とは資本を投入すればするほど効率が悪化するということで、技術開発が進めば進むほど成果に対してコストがかさむという、ある意味当たり前な現象のことですが、同時にその現象が、ある程度の資本を投入すると大きな成果が得られるように見える、という現象も説明する、と言うわけです。
で、以下は明示されていないので憶測ですが。
「適切な水準」とは、収穫逓減であるために存在する、投入する資本と成果が釣り合う水準の事だと思います。
しかし、「知的財産への独占権」があると、権利者以外は資本を投入しても成果は利用できないし、権利者は資本を投入しても効率が悪化するだけだから投入しなくなる、と言うことかな。
Re:「社会的に最適」? (スコア:2, 参考になる)
フォローありがとうございます。
小林氏の解説を更に要約する際に、変な編集をしてしまっていました。
経済学における社会的に最適な状態とは、関与するプレイヤーの利得の合計が最大となる状態を指します。
企業・消費者からなる経済では、企業利潤と消費者余剰(消費者が支払っても良いと考える金額よりも安く財を購入できた額の合計)の合計を最大にするのが社会的に最適な状態となります。
マクロモデルはあまり触っていないので少し自信がないのですが、元の論文では競争均衡経路と社会的に最適な均衡経路は等しい事を前提として、社会的に望ましい均衡経路よりも独占の均衡経路では知識の生産活動が過小になる事を示しています。
本来ならば、競争均衡と独占の比較を行うには、企業が複数いるモデルにて、独占と競争均衡を比較すべきなのですが、元の論文は経済全体の生産活動を行うマクロ生産関数を考え、個別企業の戦略を考慮していなません。
マクロモデルでは、競争均衡では社会的に最適な状態が得られる事を前提として議論を行うのは割と良くあるので、このような比較を行う事それ自体は問題ではありません。
しかし、本当に競争均衡と独占を比較するならば、研究開発を行う企業が複数いるときの戦略を考えなければいけません。
研究開発を企業が競争的に行うマクロモデルも存在していますので、今後この生産関数を用いた派生的な研究が行われるかもしれません。